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武蔵野航海記

武蔵野航海記

「あるべきようは」の生成

いままでに説明してきたように、日本人の特性は共に働き「同じ釜の飯を食う」仲間を一族と考え、絶対的な善悪の基準を持たず、社会も国家も自然物と考えているということです。

人間関係も善悪で判断せず、お互いに「無欲に」「誠実に」「相手の身になって」良好な関係を保とうとします。

鎌倉時代に明恵上人が喝破したように無欲に自然の中で自分の居るべき位置を悟るという「あるべきようは」が正しいと考えているのです。

日本人がこのような発想になったのは7世紀後半に支那の儒教を背景に持つ律令制度を導入して中央集権国家を作ろうとして大失敗したからです。

7世紀までの日本人の発想の基本は、「共に働き同じ釜の飯を食う仲間は一族だ」というものです。

この集団を「氏」といいます。

「氏」は支那の言葉で、血縁関係の有無に関係なく同じ場所に住んでいる集団を指しました。

当初は日本人もこの意味で「氏」を使っていました。

同じところに住んでいる集団は共に働く仲間でもあったわけです。

そして男系の先祖を同じくはするけれども一緒に住んでいない者との一体感は希薄だったのです。

一方、儒教の教えの根本は宗族という男系の先祖を同じくする血族集団の利益を最優先するという道徳です。

そしてこのような多くの宗族を多く含む国家という大きな組織を統治するのは「聖人」という支那の道徳に優れたものであるべきだという国家論がその上に乗っかっています。

ここで注意しなければならないのは、支那の道徳というのは宗族を基礎としたものですから、日本人やヨーロッパ人の「道徳」とは基本的に違うということです。

例えば、支那では都市が敵に攻められて食糧不足におちいった時は、市内の人を殺して食糧にします。

このときに食べる順番が決まっているのです。初めに子供を食べ、ついで女を食べ最後が男です。

子供は後からまた作れるし、女は男系の先祖を生む道具ではあっても男系の子孫ではないからです。

支那では男系の子孫を残すことが最高の道徳でこれが全てに優先するのです。

これを「人を殺して食うとはとんでもない」とか、「女子供は保護しなければならない」という日本やヨーロッパの道徳を主張しても無意味です。

道徳のベースが違うからです。

一族と言うものをどのように定義し捉えるかという根本的なところで日本人と合わない儒教を導入したので大混乱してしまったのです。

この時は日本がやっと国家組織を作り上げようとしていた時でした。

まだ共に働き仲間意識を持っていた「氏」が日本中に散在し、この「氏」を統合する日本全体の正義の体系ができていない時でした。

そのような時に日本人に全然合わない家族制度を基礎とする儒教を導入しても日本人は受け入れませんでした。

だから、その上部構造である儒教の国家組織思想である律令制度も納得しませんでした。

そして律令体制という国家組織を天から降ってきた自然災害のように思ったのです。

そして以後自分たちの正義の概念を作り上げることをせず社会や国家という「氏」よりも大きな人間の集団も自然物と感じるようになってしまったのです。

「あるべきようは」という自然を重視する思想は徐々に発展し、やがて天皇を自然の象徴とする発想と習合していきました。

江戸時代に大流行した心学は、天皇は自然を象徴するものだと考えたのです。

今天皇が日本人の象徴ということになっているのは自然を象徴しているという部分もあるのです。

この辺は皆さんも感覚的に分かると思います。

美しい四季と穏やかな気候が、日本人の自然を重視する今のような性格を作ったのだという説明をよく耳にします。

恵まれた自然は人間と対決するものではなく人間と共存するもので、一神教のような苛烈な宗教は砂漠のものだという見解です。

しかしこの説明は説得力がありません。

西ヨーロッパも美しい四季と穏やかな気候に恵まれていますし、支那の揚子江沿岸や南朝鮮の気候は日本とあまり変わりません。

しかしこれらの地域の住人の持つ世界観や文化は日本とまるで違います。

また一神教が砂漠の宗教であるとしたらキリスト教がヨーロッパに普及するはずがありません。

もうひとつの一神教であるイスラム教は高温多湿なインド・バングラデシュやインドネシア、さらには四季のある地中海沿岸に広まっています。

民族という人間の集団の世界観は、歴史的な伝統の中でその民族が作り上げてきたものなのです。

日本は過去に何回となく儒教や民主主義という外国の思想を導入しました。

しかし、これらの思想の根幹が「天」や「神」という絶対的な存在が定めた善悪の基準だということが理解できず、「心の問題」だと理解してしまったのです。

日本人は、支那やヨーロッパの国家というものが、この善悪の基準によって国民を統合し、特定の運命共同体の独走を抑えようとする機能的なものだということが理解できませんでした。

ヨーロッパの国王はキリスト教を援助し国内をキリスト教で統一しようと絶えず努力していました。

これはキリスト教の「正義」で国内を統一し、諸大名の連合体と言う状態から脱して国家を機能的なものにしようと考えたからです。

日本人は儒教やキリスト教の持つ機能を理解せず、これらの思想を本場のものとは全くの別物にしてしまいました。

鎖国時代はこれでも問題は表面化しませんでした。

明治になって諸外国と正式な国交が開かれ、儒教や民主主義の本場と交渉をする際に同じ言葉を使って全く別の内容を話すという事態になりました。

そしてお互いが理解できず関係がこじれてしまうようになりました。

第二次大戦の原因や支那・朝鮮とのおかしな関係もこれが原因であることは既に説明しました。

また戦後になって、キリスト教を背景に持つ「民主主義」が理解できずに「衆愚政治」におちいっていることは読者の皆さんも既にお気づきと思います。

「民主主義」とは「法の支配」という概念を含むもので、神が定めた絶対に変更できない法を基に皆で政治を行いましょうということです。

しかし日本には「神が定めた絶対的な法」がありませんから、「皆で政治をしましょう」という部分だけが残ったのです。

「皆で政治をしましょう」ということは、「皆で納得しあいましょう」ということで、「皆で善悪の筋を通しましょう」ということではありません。

そして代議士が運命共同体である利権集団のボスですから衆愚政治になってしまったのです。

このように日本人の正義は未だ確立していません。

そして国家や社会も自然物であり、各個人や企業・官庁などの運命共同体は自然の中で各自が自分の居るべき場所に居ればいいと日本人は思っているのです。

明治以後の近代日本の歴史は、「あるべきようは」という非常に特異な思想が外国との間で生じた軋轢の歴史です。

そして、日本人は自分たちの思想が外国と比べて非常に特異であることを理解するようになりました。

その一方で、日本人の良いところ、即ち勤勉で犯罪が少ないことなどに着目して日本の文化は非常に優れているという結論を出す者もいます。

20年前、日本の経済が快進撃をしていたときは、「日本的経営」に世界中が注目しそこから何かを学び取ろうという動きもあったのです。

実は私もその一人だったのです。

その一方で、日本人が集団の中に埋没し、個性を持っていないとして日本の文化を評価しない者もいます。

このどちらの態度も日本人の思想の全体を見ての評価ではなく、その一部に着目しているだけです。

日本人の思想の全体を眺め、その生成の歴史を調べてみたら、その根底にあったものが「あるべきようは」と「同じ釜の飯を食う一族」というものだったのです。


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